しらび攻め(その1「そ」)

 花粉の季節も終わり、外はうららかな日差しがさす日和だ。高い山々の裾野にあるこの宿泊先では、朝は霧がかかることが多い。今年の走りのなかでも、かなり厳しいルートを攻める日である。いくつか暖めていたプランから種々の条件を考慮した結果「諏訪湖から中央構造線を南下し同ルート北上し戻る」プランに決定。特製ジャージを着込み、一路諏訪湖南岸近くの駐車地点へ向かう。ちょうど1時間、アップダウンの多い道だ。平均時速50キロ、これは世界最高峰の自転車レースでTT優勝者が出すようなスピードか。
 信心深い人々や、信心深くはないが習慣としてはせ参じている人々を横目に出発の支度開始。予備ウエアと補給食関連を背負い、9時過ぎにスタート。(本人比)では素晴らしい出足である。今日は上り坂や平坦区間でハイペース維持をしなくては、という目に見えないプレッシャーから開放されて走れる日だ。むしろ意識してハイペースをやめペースダウンを行うくらいでいいだろう。
 最初の峠、杖突。年に1週間だけ渋滞が発生するという不思議な峠だが、名前からしてこの峠にもいろいろないわれがあるのだろうな、などと考えながらのぼっていく。絶好の好天だがこの季節では、大気中の水蒸気と気温の関係からであろう、真冬のような澄み切った山々のアウトラインはのぞめない。すでになじみの峠になった感のある杖突峠、である。いいかえるとどのコーナーでどのギアを使うか、がほぼ決まっているということである。あそこのS字コーナー手前まではこのギアのままで、ここを過ぎたら一段シフトアップか・・などとなる訳だ。が、今日、それではいけない。知恵を絞った末に「常時1段軽いギアを使うことを基本とし、これでは軽すぎて困るという場合には通常ギアに戻す」という作戦を実行していく。そんなペースなので、体調は並以下(って大体いつもそうなのですが・・
)の割に体感としてはあまり苦しくない。淡々と登っていく。寄らなくてもいいかなと思いつつ、お約束の「見晴台」で山々と湖を眺める。ついでに、すぐ始まる下り坂に備えたウエアをここで装着する。気温もすでに高く、今日の下りは「薄手ベストプラスネックウォーマー」で行くことにする。天が恵む素晴らしい日射しや大気を、できるだけ直接肌で受け止めたい、などという敬虔な動機なのかもしれない。体幹と頭部、首周りを保温する、という生物学的理論に適っていることはもちろんだが。
 兵どもが夢の跡、そんな表現がそっと寄り添うような峠から高遠へ下っていく道・・・。よく見るとあちらこちらに僅かではあるが季節の花々が彩りを添えている。抜き去る車も、向かってくる車もほとんどいない。同好の士といえるバイクがときどき通るくらい。こんなときにも忘れてはならない人、それはすでに廃車になっていてもおかしくないような原付に、極楽の園への入場招待券(無料、退場不可)を手に入れお尻のポケットにしまっていると思しき御仁、である。彼らは下りではもちろん、ときには上り坂でもロ−ド走行のベストラインをふさぎ、排気を撒き、心地よい騒音を奏でたりするのだ。こうしたローカルエリアでの彼らとの遭遇は、まさに一期一会である。来年も同じ時期に同じ道の前方を、同じようにふさいでいるかもしれない。彼らだけ先に極楽の園へ旅立っているかもしれない。私も彼も極楽の園の、同じような道で出会うかもしれない。
 高遠の手前にお気に入りの休憩場所がある。今日もここでひとやすみだ。高遠を巻いて、さらに道を進む。このあたりからは右手に木曽方面の山々、左手に南アルプスの山々が見え隠れする。そして少しずつ本格的な峠が迫ってくる。その前にもう一休み、お気に入り休憩場所で早めの昼食補給をかねてのんびり日光浴である。ただここでの「のんびり」は、ふつうの「のんびり」ではない。すでに日没後も走らなくてはいけないかどうかの瀬戸際にあることをうすうす知りつつ、気付いていなかったようなふりもしながら「少しだけのんびり」なのである。昨日もかなり走ったうえでの今日、なので経験からすると「早め早めに」「多め多めに」補給をとることが必要な日でもある。そういったわけで時間も空腹感も少ないなか、補給食にしておくにはもったいないような「おいしい補給食」をいただく。気合を入れてさあ出発、という場面ではある。が、体内血糖値レベルが更に上昇し、春霞のような「どよよ〜ん」とした気分に覆われてのスタートとなってしまった。本日の最難関に差し掛かる前に・・こんなことでいいのか??
いいのである。(40台以上の方には、ここで「テーマ曲」が挿入されますよね)
 3000メートル級の山脈を水源にするこのあたりの川は、国は異なっても同じような立地条件をもつところ、例えばベネチアの北部、ドロミテ山塊からアドリア海へ流れる川の広がり、水量、水質や景観と通じるところがある。ここを通るたびにそうしたことを思い、思い出す。そしてここを通るとき以外に、そのことを思うことはない。また、このルートでは毎回考えさせられることがある。それは「中央構造線における露頭岩石中の化学成分とその色彩について」でも、「気と気功との違いとは如何」でもない。それはより深遠なテーマ「峠までの実質距離・国道標識表記距離および手書看板表記距離との三角関係ならぬ相関関係」について、である。実質として「市野瀬分岐から分杭峠まで」には距離が存在する。がそれは果たして次の3つのうちどれなのだろうか?「猫目過去実測数値でありながらうる覚えの数値」「日出る国の国土交通省計測国道表示距離数」「怪しげな手書きペンキ塗り看板上に表記された距離数」・・・。あるいはどれがより近い数字なのか、ということについて、である。前回も、そして前々回も、(おそらく前々々回でも)、喘ぐ心臓の「心配」を取り除き「心拍」に全力をそそいでもらうため、この3つの数字を考えめぐらせたものだ。そして、その試みは毎回無駄に終わる。この三角関数的でありながら全然三角関数ではない、難解な方程式の解を、可及的迅速さで算出するために自らの脳が消費するエネルギー。あるいはその方程式を放棄し、心配を残す線楽をした際の消費エネルギー。方程式が解けないことによるストレスがもたらすエネルギー。人生にはかくも多くのエネルギーが存在しているのか・・・。果てしなく続く正解への道のようでもある。
 答えが出せないまま、苦渋の峠越えが終わった。最もきつい川沿いの直線部分が終わり、S字カーブに入ってしまうと、実際のところ残り距離があまり気にならなくなる。「何キロあろうと峠に着けばそこが終わり」なのだから。峠に到着する。「気」を感じるためにはせ参じている人々を横目に、狭い峠の鞍部でクールダウン。汗をふき「薄手ベストプラスネックウォーマーの装着」を行う。以前、あやしげなおじさん(ロードレーサーになじみのない人から見れば、私も彼に十分匹敵する「怪しさ」をもつはずだが)おじさんから「気を感じにきたの?」という質問をされたことがる。心臓が1分間に160回、血液を送っているときに実にふさわしい質問ではないか、と感嘆したものだ。幸か不幸か、今日その質問は発せられることなく「気」中に閉じ込められている。「お気に入りの峠下りリスト」の
上位に名を連ねる、分杭峠の南下りが始まる。中央構造線に沿うようなかたちで川沿いを下っていく南側は、いつきてもどこか心地よさを感じさせてくれる。山の斜面や道脇には、誰に見られるわけでもない可憐な花が咲いている。そんな何気ない風景を瞬間瞬間で眺め、感じる。安全なライン取り、時に少しだけコーナーも攻めたりしながら下っていく。ツ−リング志向のロードレーサーの至福のひとときである。あえて注文をつけさせてもらえるなら、そんな心地よさの中「覚めた目で路面を見、勾配・距離・目印を脳裏に焼き付ける」なんてなしにしてほしいものだな〜と。でもあなたはここを数時間後に、今より疲労困憊した身と心を背負い、車さえ通らない夕暮れ時に登らなければならないのです。そんなこともちらっと考えながら、下り勾配が緩やかになってくる。
 大鹿村中心部に到着。中心部といっても始めてくる人だとどこが大鹿村だったのだろうか?みたいな控えめなところですが・・。いつもの休憩ポイント(って関東甲信越いたるところにこういうお気に入り休憩ポイントがあるわけです、「ご休憩」でも「お泊り」でもなく「休憩」のための)で普段より多めにしょってきた(今日は泣く泣く背中ポケットだけではカバーできないのでNシマ背負い袋をしょってはしっているのです)補給食をとる、くどういようですが「とり過ぎではないか?」と思うほどに。もちろん使い込んで、要所要所の距離や勾配やらの書き込みがしてある地図を確認し、この先の地蔵峠には何体のお地蔵さまが、どこにいらっしゃるのかを確認し、ついでに距離や積算標高差の再確認も行う(もちろん、わかる方はどちらかが冗談でそちらかが本当か、わかると思います)。このとら
えどころのない長く続く峠はいったいどこが注意すべきポイントか、もう少し端的に言えばどのあたりが最もいやになりやすい忍耐を要する部分なのかを、過去データを脳裏に浮かべつつイメージする。
 それにしてもこの天気、静けさ・・。我国黄金週間真只中なれどいずこに人やありと人の問いけり。などと漢文・古文混交文で感嘆しつつ南アルプスから流れ出す川幅の広い橋をわたる。ここからは寂しいくらいに細い川と細い道、おまけにお約束の荒れた路面が始まる。この上りは分杭峠ほどはよく知らないので、記憶と現実とが相違する部分にややとまどい、一致する(大体がこちらです)に納得しつつ少しずつ進んでいく。徐々に、しかし確実に明らかになってきた事実・・・少なくとも前回きたときより苦しいということ。全体としては勾配はさほどきつくないが長い、というのがこの峠の特徴として正しいコメントである。川沿い区間にごく短く不規則に急な部分がちょっと気になるぐらい・・。そして川との並走区間が終わり、右に曲がって峠らしいS字区間に入る。ここですでに心拍、脚とも売り切れ寸前といった感じなのだ。前回はここにきたときは地形的にみても少し先から広がる展望からみても急勾配が続くような部分は無いと判断でき、このぐらいの勾配なら何キロ続いても大丈夫かななどと思えていたはずなのに・・。
 名ばかりの地蔵峠標識を通過、始めてきた際はその標識のある位置にとまどいを覚えた。が今日は、峠をのぼる自転車にとってその峠標識が何の意味ももたないことを知っている。そこからも何の変わりもなくのぼりが続き、しばらくすると僅かな下り区間があって一息つけることも・・・。この下り区間、前回もそうだったが今回も、その短さにもかかわらず結構重要だ。なぜなら周遊ルートをとれないこの区間、下ったところは帰りに必ず上ることになるので・・。息絶え絶えにこの区間にさしかかり、距離と勾配を確認しながら下る。1キロもなかった・・・のだが。予想以上の疲労困憊ぶり、懐かしいしらびそ峠上り口分岐点についたときには「戻〜ろうか〜戻ろ〜よ」というメロディーが鳴っていた。
 
 しかし、ここでまだルートと日没時間と体調をしつこく確認したがる人が1名、しかたなくとりあえず「ビール」じゃなくて「補給食」を流し込む。その結果僅かなら強気(というより疲労困憊状態での単なる強がり、という人もいますが)になり、ここまで来て絶景の峠景観へ、及び今年度最高記録になる可能性もある「積算獲得標高プラス走行距離値」への未練がわいてくる。「どうせ疲れるならば」「どうせ日が暮れるならば」・・・。それにここからの7キロはそこだけ走るなら、路面よし、眺めよし、車少なし、適度な勾配、達成感の得られる適度な(つまり長すぎない)距離・・・、と3拍子も4拍子もそろっているAAAランクの上り坂なのだ。ということで善は急げ、というより少しでも日没後無灯火走行は短くしましょう、ということで口の中に残る補給食をボトルの水で流し込み出発。
 確かに勾配はさほどきつくなく、5.5〜7%程だ。さすがに27Tには出番がなくほとんど24T中心。残り距離数の看板が1キロずつあることも、まだ2回目とはいえしっかり織り込み済。ほとんど苦しくはない、でもこの状態(すごく苦しいわけではないが、決して楽ではない)であと30分程度ひたすら進んでいかなければいけないことが重い。前方に今日始めてみかけた自転車の人発見。何とこれが最初で、最後でした・・この黄金週間の絶好の好天で・・。MTBベースの写真をとっている人のようで、ばてばての私のペースよりかなり遅い。遠目からもわかる高回転だったので、素人(?)とはおもえないが見る見るうちに近ずきあっというめに後方に消えていった。そうか、こんなにバテバテでも自分なりの設定ペースからあまり遅れたくない、という速度修正が自動的に入っているわけか・・・。知らない間に1キロ経過だ、ていうことはこのまま何も考えずにこのペースで行くと、3分の一を過ぎるわけだ・・。あと1キロで半分だ、油断は禁物、シフトアップなどしなくていいから・・。あと1キロで残り3分の一、ていうことはもうまもなく残り1キロ、1キロといえばどんなに間違えてももう間もなく、間違いなく到着するぞ・・・。ほとんど何の生産性もないような会話(自問自答)が峠にこだましている。時折下ってくる車以外は静寂が支配している。そのうち欧羅巴シャレー風の建物が見えてくる。間違いなくあそこまで上る、でも間違いなくあそこで終点だ。それくらい急だったかな、それくらい続くんだっけ?これが最後の2キロ手前からの最大の関心事なのだ。頂上手前にある、唯一の急勾配区間について。前回足をついた覚えは無いが、S字蛇行くらいはするのかな・・あーイヤだイヤだ、早く終わらないかな・・。そして最後の500メートル位か、とってもきつい勾配をやっとの思いで乗り越え広々したホテル前に到着した。
 そこはアルプスの展望を楽しむ人たちの、のどかな広場・・・。クールダウンのために何回かそこらを回り、やっと自転車から降りる。はじめて来たときは、ここからの素晴らしい展望に見入ったのだが、今日はすでに①止まっている時間だけ、日没以降に走る時間が増える②疲れている③晴れているが、春霞がかかっている・・などの理由からあまり興味が無い。空腹感はないがここでは唯一の塩分含有汁ものを迷わず食べる。下りに備えすぐにウエアを着る。さすがに山の景色を眺めないわけにもいかないので、とってつけたように眺めた後、先ほど追い抜いた人と少し話す。長野市に住んでいるとのこと。それでも分杭峠ビーナスラインの残雪状況、ここからの南側への下りルート・・・なんだかこちらのほうがルートに詳しそうだ。       
 そうこうしているうちに予定の最大20分で・・が崩れ去る。しかしここまでくると多少急いだところで何も変わらない、というより「急がば回れ」とはまさにこういうときのサイクリストのためにある、と常々思っているわけで、それを実践する。といっても遠回りする、訳ではない。起こりうる危険、トラブルを99%回避するためにどうはしるべきか、その答えどおりの走りを実践するのである。
 順番からあげれば事故、落車、メカトラブル、ハンガーノック、道の間違い・・。そして最後に来るのが平均速度をあげること。結局よくありがちだが、折返し後に楽しみが無い展開になってしまった。すでに体も冷えているので下りでの心地よさも無い。あれほど晴れていた日差しにも明らかな翳りがでてきた。意識の90%は下っているコー
ナー先の車や障害物のイメージ、路面、グリップに、残りの10%でのぼりのイメージを組み立てて走る。この「下りコーナー先のイメージ」というのはかなり大切で、少なくとも安全最優先のツーリング(安全を優先順位から下げるような走りはプロ、それも実力のあまりないプロ以外あり得ないというのが私の持論ですが)では次の一瞬にこういうサイズの車がこういうラインで現れたら、どこまでかわせるか、停止中の車が路上をふさいでいてブレーキでは避け切れない場合の止まり方(転び方)、落石と前後輪ラインのはずしかた、砂利の浮いている可能性、ウェットになっている可能性・・・。日頃からこういったことにも集中した注意を払うことで、そうでない人よりリスクを確実に減らすころができる。ほとんどあり得なくても、最も危険度が高いと思われること・・「砂利満載の大型ダンプが
音もたてずに時速80キロでブラインドコーナーから道幅いっぱいに突如現れる」こと。これを100%回避することは不可能に近いが、これくらいまで最悪の事態を想定し、妥協点をイメ−ジで描いておくことは経験上必要である。
 そんなことを考えながら、今日は幸いにも(残念ながら?)そのようなダンプは現れなかった。それでも地蔵峠のような狭く細く砂利が浮くコーナーのある下りで、対向からオートバイや車幅感覚のない人生の大ベテランの運転するような軽乗用車がくるとちょっとどきっとするものだ。ラインひとつ、ブレーキレバーを引く指先1ミリの違いで事故にならないとも限らない。最もここまで読めば通常の私の運転は、平均以上に安全志向が高いことがわかってもらえるでしょう。これが国道だろうか?と疑問がわいてくる道路の中でも、この区間はかなり上位にランクされるだろう。大鹿村中心部到着、往きと同じ場所でショートストップ。休憩でも補給でもなく・・。メーターを上から見てもはずして見ても、どうみてもスタート地点へは日没後走行が確実。ここで決めたのは分杭峠を迂回するかどうか。下りながらの考えでは「迂回」が有力だった、が、疲労困憊ついでにここだけは上っておこうかと気の迷い。峠へ向けてののぼりが始まる。はじめは緩やかに、途中もまだ緩やかに、最後まで急勾配は無いこちら側ののぼり。すでに日が翳り、通る車もほとんどいない。道脇などに人がいるとこっちがびっくりしてしまう、なぜこんなところに・・・。おそらくそれはまったく逆なのだろうが。心拍計は装着していないが、見なくても心拍がもうあがらなくなっていることがわかる。
 冷たい汗がでてくる。途中で走れなくなる、という情けない状況だけは許されないので少しずつ少しずつ進む。それはまるで自らの心臓と肺と脚とに負い目があるかのようである・・。息が上がったわけでもない、そこから急勾配がはじめるわけでもない、補給を取るタイミングでもない・・、それでもある小さな橋のたもとでとまった。峠途中でこのような「力ない」休憩をとるのは滅多にないのだが。冷たい汗を拭き、することがないので(とういのも変な表現だが)残った最後の補給をとりひとときぼんやりする。体がますます冷えてくるので5分ほどで再出発。峠間近から始まるS字ののぼり、見覚えのある「とにかくあと少しだ」のめじるし。峠到着、すぐに汗をふき持っている装備すべてを着込む。もう日が暮れかかっている。風で冷えないよう小さなバス停のような小屋に入り支度。なにやら話しかけたそうな気配の人がひとり・・。そうやら自転車をやっている人で、この峠のことなど少し話す。注意して下る、川沿いの直線はどんどんスピードが出る。かなりの平均勾配があることを再確認できる。下りながら考えること、杖突峠経由が距離は最短、伊那へ迂回するとした場合のルートも3つほどある。こういうときにありがちな、思考能力低下状況。気が付くと同じところへ考えが戻っている。決まったこと、杖突峠は迂回。本格的な上りが暗闇のなか、というのは黄金週間のとある快晴の一日を信州で過ごす夜としてはあまりにふさわしくない。にぎわっていた休憩所もすでに灯が落ち、人気がない。山に沈むみごとな夕焼け、でもあれば少しはこの時間に走っていることの正当性を「心臓君」「おみあし」に主張できるのにな〜。何もありません、ただ寂しく暗くなった山里だけがひろがっている。
 
 伊那へ下る。完全に日没、今日はじめてのコンビニ休憩。またしても十分すぎるほどの補給をとる。都会と違い県道と言えども暗い。前後に車が途切れると、気分は「ふくろう」だ。サングラスはオレンジ系の「夜間運転には不向きな」タイプ。はずしたらいいじゃない?という野暮な質問は控えてくださいね。これは伊達サングラスではなく、生活必需品なのですから。そう、「ふくろう」のようにあるいは空をとぶ「大鷲」のように闇の路面を見入り、僅かな徴候から判断材料をえて走り続ける。日中はそちらかといえば「うっとおしい」車も、「こんな夜は」ちょうちん行列のお供のようにありがたい。ちなみにこういうくらい夜道のゆるやかなアップダウウンやコーナーを走るのはなかなか心地がいい。それは視覚に頼れない分、路面と体の接点であるサドル、ペダル、ハンドル・・そこから伝わるフィーリングと自分の描く状況との関係において、である。普段は脳が、視覚判断から得た情報をメインに、「こうあるだろう」というフィーリングの想定をすでにもっていることが多い。そして実際に体感したものとそれがほぼ一致していることが確認される。「やはり想定どおり、さすがに私だ(脳のつぶやき)」というある種の快感がある。夜間などの走行ではそれが逆転する。伝わるフィーリングが先行し、後を追い形で「やはりそうだったんだな」と脳のつぶやきはトーンダウンされ、その分体感するフィーリングがダイレクトで心地よさが伴うわけだ。こういった例はあらゆる動作、行為にもあてはまる。
 さて、そんなことを感じながら(というよりは正確に言えばサドル、ペダル、ハンドル・・そこから伝わるフィーリングが日中より心地いい、これには確か理由があって知っているはずだけど・・・とすでに思考能力が衰えているので答えはサドル上では出ない訳なのだが)夜道を進む。以前にも走った道ではあるが、夜は方向感覚が弱まるので、勘違いには注意しながら走る。確かにこの道で、この交差点はまっすぐでいいはずだけどまだこの向きに道が続いているけれど、そろそろもう少し左向きになってくれないと不安だな・・とかね。最後にまだ考えていること・・それは「中央構造線西部における地形について」でもなく「伊那地方における産業立地条件と気候との関連」でもない。もっと大切なテーマ、有賀峠経由か諏訪湖南岸周りかである。苦しいけれど早く終わる、苦しみは少ないが長くかかる・・初歩の算術を駆使し、「係数ド(なぜかここだけスペイン語風です)苦痛」×「持続時間」=総苦痛量値。簡単な計算なれど、くどいようですが思考能力指数低下現象により最適解がなかなかでない。そうこしているうちに「そうだ、ここだ」ポイントが出現してしまった。
 「右折すべきか直進すべきか」それが人生の岐路になるのか単なる帰路の途中なのか・・・。ここで作用した定理は生物学的及び物理学的にも非常に重要とされる「○○○○○定理」、具体的には「ひと」とは過去の記憶に最も支配される性質をもつ生物である、というものだ。曲がったことのある交差点を曲がっていた、単にそれだけ。
すでに真っ暗闇の上り坂が始まる。「まさか雨は降らないだろうな」という疑問がわきあがる。完全に弱気だ。峠を「攻める」などという気持ちとは最も遠い。自分にも「峠を攻めている」「この峠を攻めよう」などと思い、実行したことがあるとはとても思えない。何気ない表現だが「峠を攻める??」意思も人格も持たない存在、本人は自分が「峠」であることも認識していないし、どこからかどこが「峠」なのかはもちろん誰も知らない・・・そんな峠を「攻める」なんて・・、やめましょう。峠を(あるいは峠の名を借りた自分の心身を)いたわりながら、気持ちはすごく後ろ向きだがそれでも車輪は回っている。多分1年間に1回だけ走っている。状況は似たり寄ったりで・・
 とにかく勾配はない、というより急傾斜区間がほとんどなかった。が、距離は結構ある。例えていえば最後の500メートル抜きの大垂水峠八王子側を2つつなげたようだ、といえ非常にわかり易いでしょう?灯りがなく暗い。どちらでもいいから車が来てほしい。そしてあまりにも退屈で、苦しくないけどつらいので、何かを考えようと思いつく。そうだ、車の数だ。私が峠の入り口から峠に到着するまでに合計何台の車に追い抜かれる、あるいはすれ違うか?について予測数値をだし、1台ずつ数えるというGW限定自主課題に取り組み始めた。手順としてまず、すでに過ぎていった何台かの車を思い出し確定させる。次に月日、曜日、時間帯、天気、もちろんこの峠の存在価値、利便性、この地域の一人当たり乗用車保有率、この地域以外から利用する可能性のある車・・・あらゆるデータがインプットされ、更に暗闇をじっとみつめ数値を上方下方に修正。基準数値が決まる。修正後数値も決まった。最後にやる気のない車を私の人並みはずれた「登坂力」により追い抜いてしまった場合は「マイナス」するのか、暗闇で併走する熾烈なバトルになった場合はどの位置で抜いたか抜かれたかを判定するべきか、あるいは気が付くと疲労困憊のあまり自転車が激しく後退、対向車を後ろから追い抜く可能性はないのか・・・・。
 次々と難題が噴出したが、幸か不幸かそのようなきわどい事例には遭遇しなかった。それでも自主課題決定後、このような多くの考えるべきことができたため退屈感、疲労感が(多少なりとも)和らいだ。もちろん車の数を数え間違えるような致命的なミスを犯さないため、5感に加え第6感まで出動させ前後はもとより左右上下までに気を配ったことはいうまでもない。さて、そんな空想交じりの夜の峠も、ついてみればあっけない。何台だったのか、何台を当てられたのか、ごまかしたりしなかったか、などということはさておき、あ〜ここだ。暗闇の中冷えた汗を、6時間前からの汗で冷えたハンドタオルでぬぐい急な下りにそなえ手早くすべてを着込む。「私は初夏の、きらきらと光り輝く諏訪湖の夜景を眺めながら、満足感に浸りながらこの信州の峠を下っていった」などと書きたいところだが・
・・。路面がはっきり見えないのでおっかなびっくり、道脇側の白線とセンターラインだけを頼りに、いつゴツンと路面の荒れたところからくる衝撃があってもハンドルをはなさず転ばないよう、冷えた体をなだめながら寂しく下っていった、のである。
 幸いスタート地点の駐車場の鎖は開いており、自転車をたたみ汗をふく。長い旅路が終わった。翌日計算した限りでは、1日の積算獲得標高の自己新記録を更新した模様である。もちろんGPSなどという非非科学的用具などは装着していないので、地図読みでの数値になるが。

(続く?かな)