唐松岳晩秋

白馬に来るのはいつ以来だろうか。
学生の頃、八方尾根でスキ ーをしたことがある。
最上部の兎平から麓までの長いダウン ヒルをノンストップで、転ばずに滑り降りることに何度かチ
ャレンジしたことを思いだす。
時は流れ、今。冬、スキーを しなくなってはや数年がたつ。
鹿島槍、ヤナバ、青木湖、さのさか、五竜とおみ、HAKUBA47、白馬みねかた、八方尾根。

昨夜 、大町から白馬まで来る間にこれだけのスキー場がある。
148 号線を北上していくと、穂高あたりまではまだ太平洋側気候の名残があるような気がする。
が、大町。
なぜかこのあたりから明らかに北国、そして雪国を感じさせる何かがある。
夜の路面 を照らす明かりにさえも。
青木湖あたりでは、かつてスキーバス転落事故があった当時の位置より高いところを国道が走り、
綺麗なトンネルを抜けていく。
霧が出やすい地形なのだろう、 今夜も白い霧が立ち込めていた。
紅葉もすでに終わりに近い。
関東ではようやく秋本番といった気配だが、ここらではすでに晩秋という表現がふさわしい。
北国の秋は短い。短くとも秋が存在することは、この広い地球上のなかでみれば恵まれた気候
ではある。どこかスイス、オーストリーのスキー場を思わせる 、和田野から黒菱平まで夜道を車で上がる。
先日来たときの素晴らしい秋晴れの山々の眺めが目に焼きついている。
コルチナ やチロルの山々が浮かんでくる。
県内の予報では全域晴れ。が、朝方から雨音が途切れない。
やはりここはすでに山の中、季節はすでに秋から冬に向かっているのだ。

雨の止むのを待ちながら、麓へ下り様子を見ることにする。
荻原兄弟が走り抜けた、クロスカントリーのコースが近 くにある。
このあたりでは、すでに朝方の雨が上がっている。
が、紅葉した樹々の葉にまだ露が残っている。湿気を含んだ大気が、急速に太陽の光に当たり澄みわたっていく。
すがすがしい秋の朝。山のほうを振り向けば虹である。兵どもが夢の後、そんな言葉がどこからか聞こえてくるような季節外れのコース。
もう山の雨も止む頃だろう。
ひと一人いない晩秋の山道。登り始めはリフト沿いの急勾配。
オリンピック女子滑降スタート地点が見える。雨もまたよし、と思う。それはいつかは止んで晴れるから。
そしてこの移りかわるひとときに自然はその美しさといくつもの表情を見せ、きらめく。
白馬三山と不帰の険など、頭を雲に隠している。いつまた見せてくれるだろうか、その秀麗な姿を。

そんなことを考えながら歩を進める。
冬のスキーと秋の山歩き。今歩いているのと同じ地面のうえをかつて滑っていたのかもしれない、
それは融けてしまったあのときの雪しか知らないのだろう。
スキー靴を脱ぐときと、山歩きの後の登山靴を脱ぐときの心地よさとは通じるものがある。
が、スキー靴をはくときには登山靴のヒモをきゅっと締め、期待と少しのときめきと不安感とが醸し出すような心地よさがないような気がする。
それははからずも、靴の先にビンディングという人工物があるからだろうか。
登山靴がそのまま地面を踏みしめるのと違って。そして自転車のシューズと同じように。
一歩一歩進むにつれ体が温まってくる。汗で濡れないよう早めに服を脱ぐ。
手袋や胸元のジッパーで体温調整をこまめにしていく。
八方池に到着。池には寄らずそのまま尾根道を歩き続ける。
ここからははじめての道だ。地図は持っていないが、先のルートはイメージできている。
本当にここは標高2000メートルを超える、晩秋の北アルプスなのだろうか。
道が妙に優しい。易しい、のではない。歩きやすい道。
丸山ケルン到着。ここから天候が変わり始める。

強い風と雲が出始め、先ほどまでののどかな陽だまりから、季節と高度にふさわしい厳しさを見せ始める。
今日3人目の人を追い抜く。言われてみれば結構足どりが軽い。
自分のペースでたんたんと歩いているつもりだが、日ごろの有酸素運動の効果もあるのだろう。
使う筋肉は違うとはいえ、心臓と肺とは同じなのだから。

雲のなかに入った、と間もなく小雨交じりの風が吹きつける。

視界がきかず、あとどれくらいで稜線にでるか読めない。
小雨とはいえ服をぬらす危険は避けなければ。立止まり、上下の雨具を着る。
そのわずかな時間で素手の感覚がなくなるほど冷える。20分前までは半袖だったのに、である。
やはり山に気を許してはいけない。
そこから30歩も歩かないうちに建物がぼんやり見えてくる。
どうやら山荘のすぐそばまで来ていたらしい。
冬季閉鎖の直前だったが、まだ営業しているらしい。
中に入ってみる。アルバイトの女の子なのだろうか、何人かが働いている。

全く視界がきかないが、山頂はすぐなので行っておこう。
念のため所要時間を尋ね、歩き出す。
立山側斜面から強い風が吹きつける。さいわい雪がさほど積もっていない。
が、一歩一歩慎重に歩を進める
。夏のシーズンにはにぎわうであろう縦走路も今はひとひとりいない。
2696メートル、山頂。久しぶりに山らしい山に登ったことに思い当たる。

いったい今までどんな山に登ったのだろう?わずかに風をよけられるポジションに腰をおろし、水分と食物を
補給する。
標高差1200メートル、所要約3時間。やはり自転車は速いな、など、どう眺めても視界がないなか考えた。
眺望がないことも考えようによっては再訪の楽しみが残った、ということか。

山荘への下りで雷鳥を8羽見る。この寒いなか、なぜ君たちはここで、ここで何をしているのですか?
確かに8羽いる。それではあなたはこの寒い中ひとりで何をしているのですか?
このへんに住んでいるわけでもないのに?と問い返された。
言葉がでなかった。人生とはそういうものである。
山歩きで人のものに頼るのはあまり良しとしない。

が、シーズン最後の山荘内で明るく響く若い声。一休みするのも悪くないか、と気が動く。
スパッツを取り、靴を脱ぐ。心地よいひととき。幸い悪天候は高度2600メートルから上の稜線だけだった。
そこから下は、天気予報とおりの秋晴れ。下山途中、今日何度目かの遭遇をしている人に追いつく。自然と話をしながら下った。
それにしてもこの自然のなかを半日、すれ違ったの人は10人も満たない。
なんという人口格差だろう、日ごろ通っている界隈では10000人は下らないだろう。
八方池で少し傾きかけた陽をあびながら足を投げ出し、くつろぐ。
快晴無風 、静寂の世界。弱まりつつある秋の日差しに、白馬三山がこころなしか寂しげだ。
寄り道をしているうちに日が暮れかかり、あわてて家路を急いだ子供の頃。
ふとそんなことを思い出す。

秋の山道のくだりはどこか寂しげだ。

出発地点に到着。汗をかいた服を着替え登山靴をはきかえる。心地いい風が吹き抜ける。