真夏の一日

朝方、5時頃だろうか。外の明るさに自然と目がさめる。夜半から朝方には雲がかかり、日の出とともにすこしずつ晴れてくる。このあたりの地形に共通する現象だろう。まだ涼しいなか、朝食をとる。恵まれた環境に感謝しながら、今日のルートがのっている地域の地図を眺める。正確には「眺める」といったのんびりしたものでなく「精査する」というべきか。今日のパフォーマンスの成否の3割方がこの地図読みにかかっている。本命のルート、迂回ルート、イメージ、距離、積算登坂・・・。
 時おりスプリンクラーの音が山あいに響く。静寂。朝食前の散歩だろうか、それとも本格的な練習前のウオームアップだろうか・・遠くに姿が見える。雲が少しずつ斜面をのぼっていく。少し日がさし、正面の緑が輝き始める。時計を気にする必要もなくゆっくりと自転車の支度をしているひととき・・・ふと、走ることそのものよりも楽しいひとときなのかもしれない、と思う。体への苦痛は何もなく、不安より期待が大きいのだから・・。
 スタートは当然ながらあっけない。号砲もなく、声援もない。左足のクリートがはまる音がスタートの合図だ。まず積算1000メートルほどののぼりから始まる。自転車でははじめてのコースだ。距離・勾配データの確かなものはない。が、いくつかのキーワードは頭の片隅にインプットされている。積算登坂1000メートル、距離12〜14キロ、10%超の長い区間はほとんどない、5%程度の安心できる勾配区間が途中にある・・。それにしても素晴らしい環境、眺め、山の香り、決して素晴らしいとはいえない自らのコンディションを補ってくれる。季節も応援してくれる。こんな人気のない朝の山あいの道だが、ふと頭をあげると前の方に次々と目標が見えてくる。種目は異なるが、頭に浮かぶイメージはアテネオリンピックへの最終強化合宿・・。
 20キロ程走っただろうか、ようやくのぼりのピークを超えたようだ。下り基調のゆるやかなアップダウンが始まる。もちろん車なんて通らない。朝方の湿気を吸いこんだ樹木たちが朝の日を浴び、少しずつはきだす奥深い香りがあたりをつつむ。小さな川をわたる橋を通りすぎる。ここから再びのぼりだ。が、ここは約6キロ、勾配も比較的緩やかだ。簡潔に言えば「とても心地いい」渓流沿いの上り道だ。ただし、そのある場所がゆえにひとたび何かあれば「ひたすら厳しい」道になることも間違いない。まだ時間は8時前、太陽は顔を出しているがまだぎらぎら照りつけるような厳しさはない。涼しい。今日は「心地いい」ままに通過できる、当たりの日だ。ここを通るたびに憧れていた寄り道をする。川べりへおりて岩のうえで一服だ。「一服」といってもキャメルやマルボロをくわ挽きたてのキリマンジャロをカップにそそぐわけではないのだが・・。そう、こういうときはそんなイメージがさまになる「ネイチャリスト」や「釣り人」に憧れる。高山植物が沿道に見え始め、次のピークはまもなくだ。このあたりは冬よりもこの季節のほうがいい。ヨーロッパの雰囲気が少し香っている。少し下ってから今度は積算700メートル程ののぼりが始まる。先ほどまでとは対照的な、日をさえぎるものはなにもない。車やバイクも多い。彼らとのぼりで心地よく協調するための方法はただひとつ。レースのサポートカーや応援団と思うこと、だ。もちろん手を振って笑って応援なんかしてくれないことは忘れずに・・向こうもプロならこちらもプロなのだから。子どもの遠足とはわけが違う。ここまでの上りを計算すると、スタ−ト前にはこののぼりでかなり苦しむ場合も想定していた。が、ほぼ途切れることなく続くサポートカーからの大声援を受け(実際には集中していたため聞こないのだが)、比較的いいペ−スで今日のチマコッピへ到着。

桃とキュウリという珍しくも旬の補給を得た後、予報よりもはるかに早くあやしげな雲が(彼らに何の罪があろうか?)確実に存在感を増してきている。進行方向にはまだ夏の青空が広がっているのを確認、最長ルートのうちの峠ひとつをカットすることに決め。先ほどまではのぼりでも汗が冷えるほどの気温だったが、下るにつれて下界の暑さが効いてくる。容赦なく背中から照りつける昼下がりの日差し。今日唯一今が真夏であることを実感する。再びの上りで汗がしたたる。
 今日のしめくくりを飾るのは未開の林道。まず入り口確認からだ。ピークの牧場までののぼり距離は推定14キロ。予想されたこととはいえ、すでに余力に注意信号がともっている。苦しい走りとなった。救いは勾配が思ったより緩かったことだ。それでも27Tにいれたが最後、シフトアップもできない状態だ。ノンストップで行こうとがんばっていたが、そのことに何の価値があろうか?いったん呼吸を整え、体力の最終チェックをしたほうがよかろうとの冷静な判断で5分ほど休む。再乗して10分ほどか、ようやく人や車の気配が木々の間から感じられ、キャンプ場へ到着。ヘルメットと頭に水をかぶり最後の休憩をとる。ドライブ途中に立ち寄ったことがあり、懐かしい。それにしてもなぜ私だけが疲労困憊で、夏休みを楽しむ子どもたちはあんなに元気なのだろう・・。人それぞれの人生があるということか。ここからの道は知っている。知っているから心強さがある反面、頭の中をかけめぐる断片的な情報は余力に呼応し悲観気味だったりする。何も知らない怖さとどちらがいいのか・・・。
 パラパラと小雨が降ったかと思うと次のコーナーでは晴れ間がのぞく..まことに山の天気はきまぐれだ。それ以上に揺れる私の心・・ここまで来て土砂降りになったらどうしようか、ハンガーノックにならないように最後の補給を取っておくべきか、次はどこで水が補給できたか・・。さらなるアップダウンを繰り返し、ついにもう1メートルたりとものぼりがない地点へ到着。ちょうど見晴らしのいい芝生がり、思わず横になりぼーっとするひととき。さー、あとは落車だけに気をつけて、着替えて温泉に入って・・・。
 距離は200キロに足らないものの、地図読み積算で約4000メートル。おそらく昨年の記録再更新だ。
 まだ十分に明るいうちから熱めの温泉につかる。縁側じゃなくて何でしたっけ、とにかく湯をあがったところで頭から冷水をかぶる。自分の一日の出力を使い切ったあとの、何もしなくていい幸せなひととき・・。それにしても真夏なのにこの水の冷たさ。こうしてある夏の一日が暮れようとしている。その気になれば年に何回もできそうでいて、振り返れば今日のような一日は年に数えるほどしかないものである。
(終わり)